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October 22, 2010

練り練り

スーパーでチューブ入りで売られている「練りからし」や「練りわさび」.これらの「練り」ってのは何なのだろう.すりおろしたわさびを練ってチューブに入れたのだろうか.何故,練る必要があるのだろうか.納豆はかき混ぜると美味しくなるが,わさびやからしは練るとおいしくなるとかそういうあれか.
「練りからし」や「練りわさび」の生産工場には,からしやわさびを練る職業の人がいるのだろう.
「練り職人」みたいな人が,少しずつ練り練りしてチューブに詰める.想像しただけで心ときめく.

ある会社の「練りからし」の生産工場.
この工場では,別の工場から配送されてくる「練っていないからし」を練り上げ,チューブに詰めて「練りからし」として出荷する.
この「練っていないからし」を練り上げるのが「練り職人」である.この工場で練り職人達を束ねている人こそ「練りの甚平」,略して「練り甚」と呼ばれる職人,木村甚平である.彼は職人歴70年の名工であり,練り職人で彼を知らない者はいない.

練り甚は「練り職人」についてこう語る.
「練り職人ってえのは,誠心誠意練る.練って望みの物を作る.これに尽きるね.この工場は,練りからしの生産工場だからね.俺は職人として,工場に来た物を練って最高の練りからしにするよ.練り職人ってえのは,練って何を作るか.それが大切なんだと思うよ.そういえば,俺が若い時,工場に,間違って練っていないわさびが,配送されたことがあったよ.からしの工場にわさびが届いたんだ.この時は困ったよ.だから,この工場の職人皆で,一晩かけて練って,わさびを練りからしにしたよ.その時は,戦争で物がなかったから,『間違ってわさびが来ました』なんて会社に言っても,すぐにからしが来るわけじゃねえ.それに届けられたわさびも無駄になっちまう.だからみんなで一生懸命練ったんだ.次の日は何事もなかったかの様に練りからしを出荷したよ.やっぱり,肝心なのは,何を練るかじゃなくて,練って何にするかなんだと思うよ.実際,俺はからしの原料が何なのか知らねえし.でも練りからしは作れるんだ」
「わさび」を練って「練りからし」を作る.このように練ることで別な物に作り変える業は,「練り返し」と呼ばれ,現代では「練り甚」だけができる業とされている.

練り職人は後継者不足といわれているが,この工場では後継者は不足していない.練り甚は若い職人についてこう語る.
「若い職人ってのは悩むもんだ.『からしを練ったからって何が変わるんだ』ってな.そりゃ仕方ねえ.そこでどうするかってえので,若い奴が職人を辞めちまうかってのが決まるんじゃねえかな.そういう奴には,2種類のからしを舐めさせるんだ.一つは『練っていないからし』だ.もう一つは俺が作った『練り尽くしたからし』だ.そいつを舐めると悩んでる奴は,やっぱり練ることは無駄じゃないって思うんだよ.『練っていないからし』と『練り尽くしたからし』の味は全然違うからな.俺は職人だから,悩んでる若い奴には,職人としての腕を見せることしかできねえよ」

さらに若い職人を育てることについてこう語る.
「縁あって練り職人を志したんだ.簡単に投げ出して欲しくねえよな.そんな若い奴を練って立派な職人にするってえのが,俺達先輩の役目なんじゃねえのかなあ.練り職人を志した奴がそれまで何をしてたか知らねえけど,俺は練り職人ってえのは何なのか知ってる.何だか分からねえ奴を練って何にするかってことだよ.若い奴に物を教えるってのは,練り職人の道に通じてるんじゃねえかな」

練り甚は最後に練りからしを作る難しさを語った.
「さっき話に出た『練り尽くしたからし』ってのは,売り物にならないからしなんだ.からしを練り尽くして,からしが持つ全ての味を引き出しちまっている.『練りからし』ってえのは,おでんや何かに付けて食う物だろ.『練りからし』だけで食い物として成立しちゃいけねえんだよ.『練りからし』は,いわば,引き立て役だ.でも『練り尽くしたからし』ってのは,それだけで食えちまう.一つのおかずとして成立しちまってんだよ.だから.おでんや何かに付けると,引き立て役にならねえ.おでんの味の邪魔をしちまうんだ.これじゃあ駄目なんだよ.『練りからし』に求められてねえんだよ.でもな,『練りからし』が,からしとして一番うまいのは,『練り尽くしたからし』の一歩手前だ.あと一練り,いや半練りでもしたら『練り尽くしたからし』になっちまうって状態だ.練りからしの難しさは,そこを見極めることだな」

この工場の入り口に練り甚が書いた言葉が飾られた額がある.
「物を練るな,その心を練れ」
「練られているのは自分自身」
練り職人の心意気が示されている.

人が物を練り始めたのは,いつからだろうか.
この工場には,人類が時間をかけて培ってきた「練り」の技術の頂が存在する.

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